interview

2016


赤嶺愛子さん

AKAMINE AIKO

 

現在の職業:小学校教諭

2001年 琉球大学教育学部学校教育教員養成課程美術教育専修卒業

2004~07年 北谷第二小学校に勤務

2007~08年 琉球大学附属小学校に勤務

2013年~現在 泡瀬小学校に勤務 

(※勤務校は本務として勤務した学校だけ載せています。)

2016年 琉球大学大学院教育学研究科入学

 

玉城 真さん

TAMAKI MAKOTO

 

現在の職業:自営業・農業・講師

2001年 琉球大学教育学部学校教育教員養成課程美術教育専修卒業

2003年 琉球大学大学院教育学研究科修了

2003〜08年 公立中高で美術講師をしながら作品づくりや美術関連の活動に従事

2007年〜現在 祖父の畑を手伝う。県主催の新規就農サポート講座修了第五回リノベーションスクール修了学校NPO珊瑚舎スコーレ美術講座講師「うえのいだ」という名で、野菜の生産やワークショップ・イベントを開催

 



大山:今のお仕事・活動について、どこでどんなことをされているのか教えてください。

玉城:現在は「珊瑚舎スコーレ」で美術講師と、ものづくりの講師、二つの講師をしています。自営業としては「うえのいだ」という屋号で野菜の生産と畑を使ったワークショップをしています。また造園屋さんや大工さんの手元をやったり、ものづくりの仕事もやっています。他にも、琉球新報の「南風(はえ)」というコラムがあって、隔週で計13回書いています。今はもう12回書きましたね。

永津:じゃあもうすぐ最終回なんだ。そのコラムでは何を書いているの?

玉城:家族のことがほとんどで、あと仕事のことが少しですね。ほとんどその2つです。

永津:連載されている記事の中で反響があったのはどんな記事ですか?

玉城:反響があったのは、自然について書いたものと、あとは子育てネタですね。畑をやっていると自然を相手にしなければいけませんから、普段はあまり気にならない天気予報とか、雨や台風といったものが、リアルに自分の出来事として捉えられるようになった経験のこと、例えば神社に避難したら津波が来ないとか、地名に残っているとか、そういう先人の知恵みたいなものが沖縄にもあるよという話を地元の先輩農家さんに聴いたことを書くと反響があります。もう一つの子育てネタは、自分の生い立ちと、今の娘がこういう暮らしをしてるっていうのを書くと、すごく反響がありました。

赤嶺:私も読んでいますけど、ほのぼのしていて、とてもあたたかい感じがするんですよ。娘さんとの関わりや、畑を通して感じる「ふれあい」などがとてもリアルに書かれているから、大学時代の私が知っているまこちゃん(玉城さんのあだ名)とは違う一面が見られて、「まこちゃん、がんばってるなぁ」と思いながらいつも見ています。

玉城:大学生の時は畑の「は」の字もない、しかも自分は子どもが好きかと言われたら、むしろ子どもはあまり…という感じだったので、当時の私を知っている人が見たら新鮮なんじゃないかと思います。でも子どもを授かってから考えがすごく変わりましたね。

永津:教育実習は中学校だったんだっけ?

玉城:私たちの時は2枚免許を取らなければいけなかったので、小学校、中学校の両方に行きました。

永津:玉城さんは、小学校の子どもたちに何かトラウマがあったとか…(笑)。

玉城:トラウマというか…とてもよく覚えている出来事があって。実習の国語の授業で、まとめを児童にさせず、全部自分でまとめてしまって…。最後の反省会で酷評された後、ある児童に「先生、展開はいいけど、それ以降がね…」と指導案の内容を知ってるかのように、「あれはだめだよ」ってダメだしされた時はへこみました(笑)。

赤嶺:ええっ!?小学校何年生?

玉城:6年生。やっぱり附属の子は実習生に慣れているし、よく分かっているからね。小学校の実習では美術科以外の人たちも一緒に実習をやるじゃないですか。その人たちは塾のバイトなどで教えるということをしていて、とても上手なんですけど、自分は小学校希望でもなかったのに国語の授業をやったので…もう一生やらない!って思いました(笑)。

大山: 2007年に農業に移っているようですが、きっかけって何ですか?

玉城:その年に結婚したんですけど、もともと嫁さんが畑が好きで。たまたま私の祖父がやっていたので、祖父のところに手伝いに行こうとなったのが始まりですね。始めてみたら嫁さんより自分の方がのめりこんじゃって(笑)。その当時、畑にいろいろな問題があって、このまま放置していたら大変なことになるんじゃないかということが分かったので、じゃあ農業をやってみようかなと思ったのがきっかけです。

赤嶺:農薬を使わないでやっているんだったよね?

玉城:農薬を使わないで、今で言う自然栽培という方法から始めました。普通だったら慣行農法といって、農薬とか農協が指導するような方法から始めるんですけど、自分は全く逆の方面から始めていきました。こんなふうに逆から普通の人に近づいていくというパターンは、実は今までの自分の生き方と同じなんです。ずっと皆と反対側にいた分、普通の人たちからしたら私のような人間は珍しいみたいで、そこからうまく人と知り合えたり、役に立っている部分がある感じがします。

高山:美術から農業という、違う専門分野に移ることに不安はなかったんですか?

玉城:実際、畑で食べていけるとは思っていなかったんですよ。畑の面積も那覇なので小さく、これだけで家族を養っていけるとは思っていなかったですね。それでもなぜやっているのかというと、今の社会の状況を見ていて、「なぜ都市に畑があるのか?」というのが必要なんじゃないかなと思って。農業と何かを関連させて取り組むとか、自分が美術でやってきたことも、少なからず役に立つんじゃないかと思ったんです。だから不安というよりは、やってみようという気持ちが強かったですね。あとは嫁さんが当時公務員をしていたので、生活的には問題ないかなと思って(笑)。

永津:私たちからすると美術と農業は遠いというか、全く別のイメージでいたんですが、玉城さんにとって2つは近いものだということですか?

玉城:うーん…近くはないと思いますね。ただ美術って他人が美術だと思っていなくても、自分が美術だと思っていたり、見る側・扱う側が美術だと提示して、何かしらの根拠があれば美術になりうるんじゃないかな、というのが自分的にあって。それに単純に「農業」を組み合わせれば、どっちも引き立つかなと感覚的に思いました。

永津:さっき玉城さんは「反対側から普通の方に近づいてくる」と言ってました。反対側から始まる農業とは、凄く美術的な農業なのかなと思ったんですが。

玉城:そうですね。どっちかというと私はコンセプトとかそういう方向から入っちゃう人なんで。普通の農業の人はまず生産ですから、私は逆ですね。

大山:では赤嶺さん、大学院に進学された理由を教えてください。

赤嶺:私は今、沖縄市立泡瀬小学校で教員をしていて、教員をしてから10年ぐらいになります。大学生の頃は正直、大学院には興味なかったんですよ。大学生活は楽しかったんですけど、早く卒業したいと思ってたぐらいで(笑)。でも、教員になって他教科の指導に追われるようになり、自分の専門である図工の時間について考える時間がものすごく少なくなってきたことを感じたんです。10年経った今、図工・美術を自分の専門としてもっと勉強したいと思ったのが1つ目の動機です。あとは図工・美術だけじゃなく、心理学で子どもの意欲、心の内面等も一緒に勉強したいなと思ったのが2つ目。3つ目は、大学生の頃に出会った「レッジョ・エミリア」というイタリアの幼児教育の実践の本を、学生当時、校内の生協で購入したものの、何が書かれているか全く分からなかったんです。でも教師になって改めて読んでみると、当時分からなかったことが理解できて、興味を抱きました。レッジョ・エミリアの実践と関連している「共感覚」について、研究してみたいと思ったのが3つ目の理由です。

大山:共感覚?

赤嶺:共感覚者(共感覚的感覚を持っている人)といわれている方がいて、例えば音楽を聞いたら色が見えるとか。文字や数字に色が見えるとか。人によって見える色は違うみたいですけど、図工や美術は視覚的な情報に縛られているから、五感を使った授業を取り入れることで、感性が豊かになっていくのではないか。それを通じて、子どもの発想力や表現力が磨かれ、豊かな創造性が育っていくのではないかと思って、研究してみたかったんです。

大山:赤嶺さんの大学時代の卒業制作と関係性はありますか?

赤嶺:直接関係があるとは言えません...。卒業制作での「ボディーペイント」では、自身にペイントすることで、周りの背景にとけ込む(一体になる)のが目的だったんですが、そこには、ペイントでは隠しきれない自分がいて…。

永津:中学校でも教えていたんだよね。そこで卒業制作に近いことしてなかった?

赤嶺:そうですね。美術専科として、1〜3年生まで500人あまりの生徒を見ていました。文化祭の準備で中学生と放課後、ゴミ処理場に行ったり、近くの八重山高校に空き缶をもらいに行ったりして、空き缶アートでアンガマなどの壁画作り等もしていました。中学生の作品は、抽象的で、それぞれの個性が出ていて面白かったです。3年生の授業では森村泰昌の「なりきり美術館」を教材化しました。「絵画のここに入りたい」と思った絵を、図書館で見つけさせて、グループでお互いにペイントしあって、自分たちの絵の中に入って写真に撮るっていう授業をしたかったんです。生徒は学校にある絵具やクレヨン、折り紙を使って、絵画の表現に近づけようとしていました。「クレヨンを歯ブラシでこすったらビロードみたいな感じが出るよ」と生徒が教えてくれたこともあって、授業では教えるというより、生徒たちが主体的に描き方を見つけていくような、自分たちの知らないことを生徒たちが発見していくような感じでした。計画では、この後、自分が入るところの作品を切り取る予定だったんですけど、「切るのもったいない!」って言う子が多くて(笑)。結局額縁を作ってそのまま展示会をしました。まさか切りたくないなんて言うとは思っていませんでした(笑)。でも私、先生がやらせたいことと、生徒が実際にやりたいことの相違はやっぱり問題じゃないのかなと感じます。


玉城:自分もそう思います。珊瑚舎スコーレで自分がいいなと思う教材を用いて、美術的にこんなのがいいよなって遠回しに子どもを誘導するんですけど、そういうのには反応が悪くて。家でも同じような感じになります。自分が仕事で何気なく絵を描いていると、となりで子どもたちも創作活動が始まっていたりして…子どもって場を与えてあげるだけで、こっちが楽しく実践していたら、ついて来てくれるっていうのがあるんじゃないかな。

大山:赤嶺さんは教員志望で大学に入学されたのですよね。いつ頃から教員になりたいって思うようになったんですか?

赤嶺:実は私、小さい時から教師の「きょ」の字もない程、教師になりたいなんて思っていなかったんです。それこそ小さい時は「○○レンジャーのピンクになりたい!」とか「スチュワーデスになりたい!」とか、とにかく先生の選択肢はありませんでした。近くの絵画教室に小さい頃から通っていたこともあって、高校3年生の時には美大に行ってデザインとかやりたいなぁ、と思っていました。それから夏の終わりぐらいに家族と相談して、志望校は琉大の教育学部にすることにしました。高校の担任は、「あなたは絶対先生に向いているから」と教師になることを強く薦めて下さいました。それで教育学部を受けることになった感じかな。

高山:では、学生時代に印象に残っている先生はいませんか?

赤嶺:とても好きな先生がいました。小学3、4年生の時の担任の先生で、ベテランの先生で、とても優しかったんです。滅多に風邪をひかない私が、ある日、体調を崩して黙って席に座っていたら、その先生が「調子悪そうだね」と声をかけてくれて頭を触った後、「すごい熱!」と言って、私を抱えて保健室まで連れて行ってくれたんです。その時に「ああ、先生ってすごいんだ!私のことちゃんと見てくれているんだ!」ととても嬉しかったこと覚えています。だから私が今教師をしていて、「先生、気分が悪い」と話しかけてくる子どもがいた時には、とてもへこむんですよ。「ああ、私はこの子のことを全然見てあげられてなかった」って。その度に、あの先生のことを思い出します。あの先生の影響で、子どもの些細な変化にも気付ける先生になりたいなと思いました。

玉城:私も先生というか、珊瑚舎スコーレの講師をしているんですけど、先生になりたかった理由と言えば「安定したい」ということしかなかったですね。採用試験の勉強も一応していたんですけど、畑の仕事をしているとだんだん、もういいかなって思っちゃって(笑)。先生が「こういうことが決まっているので、ちゃんと守りましょう」という決まりを教えてしまうと、子どもたちは他の方法を探そうとせず、そこで思考を停止させてしまいますよね。例えば「これが危険だ」といわれたら「危険だ」という判断しかせず、「どうして危険なんだろう」「危険にならないような方法はないかな」と、考えることを止めてしまう。先生がひとこと「こう!」と言ってしまうと、他になんかないかな?と試行錯誤することなく、決められたことしかできなくなる。そういうことが起こると思うんですよね。そうじゃなくて、方法が違っていても間違いと捉えないで、先生はいろんな方法を教えてあげられるようにしていくべきなんだと思います。私は畑という厳しいところに敢えて身を置くことによって、自分で考えて、試行錯誤して、生きていく為の力を身につけているって感じですね。

高山:県立芸術大学や専門学校など、美術を学べる場は他にもあった中で琉球大学教育学部を選んだのは何故ですか?

玉城:自分は普通校出身で部活しかしてなくて、だけど小・中の美術は成績が良かったんです。なのに高校の選択科目でなぜか音楽に回されてしまって、ひとつもいい成績がとれるものがなくなってしまい、それで自信喪失して浪人して…。一から美術の予備校に通い始めました。芸大も志望したんですけど、テストの日程がかぶっていて…それで琉球大学の方に合格したので、琉球大学に行こうと決めました。大学の授業はとても楽しかったです。今までは勉強って感じだったのが、大学では同じことやっていても勉強という感じがしませんでした。美術教科以外にも後輩が取っている授業でおもしろうそうだなと思って潜っていったこともありました。美術の教科だったら片っ端から受けて、集中講義とかも全部受けて、毎日楽しくて充実した大学生活を送っていました。大学生活のときに楽しい時間の貯金を全部使い果たした感じでしたね。

高山:アーティストさんと間近でふれあうことでなにか刺激とか、気持ちの変化みたいなのはありましたか?

玉城:そうですね。なかなかプロのアーティストの話を聞くっていうことはないので、こういう集中講義はとても刺激になりましたね。自分のときは写真の集中講義が楽しかったですね。県立芸術大学の先生が来てとてもマニアックな授業をやったり。あと授業ではなかったけどジェームズ・タレルが来たこともあったし、びっくりしましたね。

高山:愛子さんはどうでしたか?

赤嶺:集中講義のなかで衝撃だったのが、当時80歳でスキンヘッドの嶋本昭三先生が、頭に国旗をつけた姿で登場してきて、とてもびっくりしました。授業の途中、一緒に来ていたお弟子さんが退屈したのか、いきなり走ってきて嶋本先生の頭をマッキーで落書きし始めて、嶋本先生も「やめな〜やめな〜」みたいな感じで。授業の後、その落書きされた頭のまんま、永津先生と那覇の公設市場に行ったっていう話を聞いて、「なんねこのおじいちゃん!!」と思った。お弟子さんの“LOCOちゃん”という紙コップ・アーティストをしている人のお話も印象的でした。家出して、ヴィダルサスーンのヘアモデルのオーディションに最後の最後で落ちて、どうしようかなと悩んでいる時に嶋本先生のところに行ったら、「僕の弟子になって下さい。」って先生の方から逆に言われて、弟子入りしたとのことでした。凄く自由で「何この人たち!?何考えているか分からないけど、なんかいつも楽しそう!」何も否定しない、やってみたいことに対して枠が無くて、発想の奇抜さとか、なんかすごい自分の枠が広がりました。「こんなことしてもいいんだ」とか「自由な発想って、もしかしたらこういうところから生まれるのかな」とか思った、最初で最後の衝撃でした。それがまさにアーティスト嶋本昭三、その人自体がアートみたいだから。作品よりも、その人の生き方・在り方にすごく衝撃を受けたかなぁ。


高山:愛子さんは大学の入試は小学校課程一括で受けて、合格した後に美術選択されているじゃないですか。来年からまたこの方法になるらしいんですよ。

永津:100名の学校教育教員養成課程が140名に増える予定ですが、2/3以上が小学校教育コースになります。

赤嶺:小・中がわかれるんですよね。たしか。

永津:小学校課程ではないんだけど、小学校教育コースということで復活するんです。そのうち50名を学校教育専攻(教育実践学専修と子ども教育開発専修)で、45名を教科教育専攻でとるという。で、教科教育専攻の半分ぐらいが各専修ごとに推薦でとって、前・後期日程は一括でとるんです。一括分がちょうど愛子さんみたいな、入学してから専修を決める感じ。だから、そこでは特に教科の個別の試験をしないで共通の試験で入る。それで、希望して専修にいく。こういう専修選択のシステムの変更があるので、今回のインタビューで、愛子さんの経験も話してもらおうと。

玉城:なるほど。

永津:このシステムが久しぶりなので、一括で入った人が自分の希望で専修に入ってきて、もともと専修別に入ってきた中学校教育コースの人たちと一緒に勉強していて、どうだったかな?そういうことが聞けると、多分これから入ってくる人がちょっとイメージができるかなと思って。

玉城:愛ちゃんは2次試験が普通の小学校教育課程の2次試験で、国語と数学だったよね。

赤嶺:そうなんですよ。必死に勉強してました(笑)。私は小学校教育課程で入ってから「選べるんだ!何しようかな〜」と思って、高校の時の選択が美術だったので、楽しそうだなと思って美術にしました。でも入ってみるとやっぱり美大や予備校でデッサンをしていた人だったり、今までずっと美術に入りたいって勉強してきた人たちと一緒になって、制作課題も一緒に出されるから、もう本当に美術学校みたいで(笑)!私はそれまで専門的に絵画をやったりとか、まこちゃんみたいにデッサンを描き込んだりしたって言うわけではなかったので、卒業制作のテーマも、描いたり作ったりっていうものではなかったです。実技的なものとか技能的なものっていうのは、それを目指してやってきた人たちにはやっぱり敵いませんから。でも例えば永津先生の授業でテンペラ絵の具を作って「あぁ絵の具ってこんな風に出来てたんだ」と分かったり、陶芸の授業で「あぁこんな風にひもを作って、こうやってひねってつぼが出来るんだ」と思ったり、本当にいろいろな美術の領域の経験が出来てとても楽しかったですし、自分の見方だったり、図工や美術の概念がすごく広がりました。

玉城:教員養成っていうよりは、みんなアーティストっていう感じで本気で制作をしていました。先輩もそうだったし、もちろん私も。だから小学校教育課程で入ってきた愛ちゃんたちは、びっくりしたのかもしれないですね。今は先生も変わっていると思いますが、昔は正秀先生なんかもう作家さんにでもいるかのような感じの人で(笑)。

赤嶺:まこちゃん覚えてる?忘れもしない「美術理論・美術史」の授業。美術史なんて言われたら、原始ぐらいから美術史が学べるのかなと思うじゃないですか。私たちはルネッサンスとかを経て現代の美術に至った、みたいなのを期待していて、でも忘れもしない小林正秀先生の第一声「マティス以後〜」。一応、「マティスって何だろう。」と思いながら書いてたけど、3回目の講義ぐらいで、みんなで「どうやら時代とかではなく、人の名前みたいよ。」ってなって(笑)。

玉城:内容のほとんどが現代アートだったよね。それも教科書には載っていないものばかりで。

大山:作品制作は主に授業ですか?授業以外でも何か取り組んだりしていましたか?

玉城:琉大祭(学園祭)で作品を出すというのが伝統的にあったので、その時に制作はしていました。

赤嶺:あの「ゴミ袋アート」って、何年生の頃だっけ?

玉城:あ、ずっと手袋膨らましたやつ?1年生じゃないかな。1年生は余裕があったから。

赤嶺:琉大祭に向けて、みんなで「何作る?」って話して、それでゴミ袋で起き上がった人間みたいな巨人を作ろう!となって。それはまだ良かったんですけど、手術で使う手袋に空気を入れて膨らませてお花みたいにその巨人の周りに刺していこう!となって、もうそれが…前々から膨らませておくと空気が抜けてしぼんじゃうから、前日とかで全部やらないといけなくて、みんなバイトや課題もしながら、夜中にみんな並んでフゥーーー!ってやって…(笑)。

玉城:愛ちゃんが凄かったんですよ!男の自分でも、すごく肺活量がいるのに、ひとりバンバン膨らましてくから。

赤嶺:そう、だからみんなが「愛ちゃんがんばって!」とか言うけど、「もうこれ以上頑張れないよ!」っていう(笑)。でもおもしろかったよね。それを図書館の前の中庭の所に展示したんです。

高山:人数も今と違いますもんね。

永津:9人が中学校で、小学校が4人。合わせたら13人もいたからね。

大山:琉大の美術科の試験が独特で、他の美大みたいに必ず鉛筆デッサンがあるわけではないので、本当に良かったなって(笑)。

永津:合格できなかった人の中には「練習してきたのに何の役にも立たなかった」って思う子もいるかもしれないね。

玉城:でも琉大美術科の方が一般社会的じゃないですか。試験的な試験って例えば公務員試験のようにみんな真っ平らで評価されるんだけど、琉大の試験は対策のとりようがないっていう点では、より社会的な試験だと思います。例えば面白い社長さんがいるからこの人のところで働きたい!と思った時は、自分から何が出来るかとか、私はこんな人ですって売り込みに行かないと採用されないし、私を雇ってくださいって言っても、出直してこいとか言われるし、だから琉大の試験の方が普通なんじゃない?社会なんてそんなものだと私は思います。

永津:受験生から、試験に向けて何を準備していいのか分からないっていうのはよく聞くんだけど、別にそういう再現的なデッサンとか色彩の練習とかをやってくる分には、何も損にならないと思う。だけどそれが全てだと思って、視野が狭くなっちゃうと不利になるというだけの話で、だから別に準備してくれていいんだよ。

杉原:私から玉城さんに聞きたいんですが、「今の仕事に、大学で学んだ事がどのように活きているか」という事前質問に対して、「着眼点と発想する部分で、個性が発揮できるようになりました」とありますが、具体的にはどんな場面で、どんな風に個性が発揮できているんですか?それは農業で、ですか?

玉城:ジャンルは違いますが、スタートアップ(事業を自分で立ち上げること、仕事を作ること。)の「Startup Weekend」という実践イベントが沖縄であって、参加したことがあります。その時にピッチといって、提案したものを一緒に作ってくれる仲間を募集するために、20秒ぐらいのプレゼンテーションをするんです。私はその時スキルを学びたくて参加したので、プレゼンをすることでリーダーになるのが嫌だったから、誰かを応援するという立場でプレゼンをやりました。他の参加者は例えば、老人向けのくもんを作りたいということで、「くもん(公文)の代わりに、しもん(私文)を作りたい!」など、具体的なものばかりでした。私は農業の他に内装の仕事もしているのですが、内装の仕事は「全部壊して全部つくる」というのが多いんです。それが勿体ないから、「ちょっと外すだけでもカッコいいし、あえて残すことで作れるものもある。」という話や、「作業の中で散らかっていく様子が綺麗に見えたり、片付けながら綺麗に見えたりしたら面白い。」という話などをしたんです。変な事を言った自覚があったので、ダメだろうなと思ったら、5人ほど一緒にできないかと声をかけてくれて、私はグループのリーダーになり、自分の子どもが散らかした場面を写真にして、それが抽象絵画に見えるように加工し、アップして皆で遊ぶというサイト「シャッフルアート(ShuffleArt)」が出来ました。そういうことは農業にもあって、農業の要は生産なので、普通は「1個100円で売るものを120円にするためにはどうするか」とか「120円のものを何個つくって何万個でいくらになる」とか、生産に関する視点から入るんです。でも私は、「こういう雑草があるんだけど、これって野菜にならないかな」みたいな全く違う視点から喋るので、社長などの人に興味を持たれて関係ができる。これは美術をやっていたからじゃないかなって思います。


大山:玉城さんが大学で学んだことがどのように活きているかという事前質問に対して、子育てにおいてもアートを学んで良かったとあるのですが、具体的にどんな時に感じたのか聞きたいです。

玉城:児童心理学の佐々木正美先生の「子どもへのまなざし」という本の中に、子どもって生まれた時に泣く事しかできないから、泣いて、周りが反応して、抱っこして、安心して、やっと生きられるということが書かれているんです。その時に親がきついとか言わないで、常にこどもの要求に応えるっていう姿勢をとっていたら、子どもは「自分を受け入れてもらえている」と感じることができる。例えば大人だったら、頑張って勉強して自信がつくじゃないですか。これなら試験受けて大丈夫、とか。つまり子どもの要求には、もう身がぼろぼろになろうが出来る範囲で応えてやった方が良いって書かれているんです。でも私は、幼い頃親から受けたものが真逆だったせいか、自分に自信を持つことがなかなか難しいっていうのがあったんですね。だけど美術に出会って、一生懸命取り組んだことで自信が取り戻せたというか、自分も人と同じくらいの事が出来るんだなっていうのが分かったんです。だから私の経験上、アートには自信を回復できる力があるんじゃないかなって思うんです。卒業研究のテーマを考える際、実体験を振り返った時に「アートを通して自己肯定が出来た」ということを強く感じました。卒業研究で苔を使ったんですけど、私はおじいに苔のことで褒められた思い出があり、もう一回褒められたいっていう欲求があって。先生や先輩に色々言われながら、うええって泣くぐらいやったりしてて(笑)。その時、みんなからカッコ良かったぞとか言われて…ちょっと嬉しいじゃないですか。本気でやったことで、自信が回復していったんだなって今は思いますね。だから、アートを認めてもらうことと自分を認めてもらうってことが、同じなんだっていうのを卒業研究ですごく感じました。子育ての時も、子どもに対して「〜したらダメ!」とすぐに禁止しないっていうこと、それをしたとしても、後々アートで回復するとか、自己肯定感という部分を意識するようになりました。人間には可塑性があるから、いつでも回復出来るんだと思います。実は長女が抱っこ虫だったというか、例えるなら「2歳まで地上に降りない!」というか。夜泣きがすごくて。抱っこしてないと寝なくて、置いたら泣くんですよ。だから嫁さんが2時ぐらいまで抱っこした後に、3時ぐらいから自分が抱っこしてって、夜ずっと(笑)。そしたら今度は立ち止まったら泣くので、歩き続けて(笑)。ただ部屋の中をぐるぐる歩くのもきつくなってきたから、気分転換したいと思って、抱っこ紐に子どもをのせて近所をずっと歩いて。

赤嶺:えー!夜中?

玉城:夜中夜中。夜中って言っても3時4時くらいだけど。その時期、娘と同じくらいの歳の子がいる同級生がいて、一緒にお泊りに行った時に、「1日放置していたら泣き癖なんかなくなるよ。」って言ってたんですけど、私はその佐々木先生の本とか、嫁さんが育った環境とか聞いたら、絶対そうじゃないって思って、意地でやってたんですよ。そしたら今、長女が5歳くらいですが、次女が産まれて三女が産まれた時に、長女が「もう抱っこはいい。もう自分で全部やる!」って言って、それからはもう人が変わったようになって。だから、自立が早いっていうのが分かったんです。この前、皇帝ペンギンのテレビを見て、動物って親というリスクを背負って子どものために行動していることをすごく感じましたね。

赤嶺:ペンギンって卵を落としたら、その卵は一瞬で凍っちゃうでしょ。だからお母さんペンギンが海に行って餌をとっている間、お父さんは群れになってくっついて、隣のお父さんと一緒にお腹の下に卵を持ったまま、二ヶ月間何も食べずに、ずーっと待ってるのよね。

玉城:飲まず喰わずで。それでお母さんが帰ってきたら交代して、今度はお父さんが餌を取りに行く。200キロくらい歩いて、その間にオットセイとかに襲われそうになったりとか。それがペンギンの愛情であって、そして野生の動物は自立するんだと思います。人も基本そうなんじゃないかな。

赤嶺:そういう感覚は、やっぱり美術をやってるからじゃないかな、私もすごいなって思うし。映像で見る事とか誰かの言った言葉とか、分かっているつもりになっていることが、自分の体験を通して、改めて「ああ、こういうことだ」って自分の言葉になる瞬間ってあるんだよね。たぶんそれが、感覚とか感性だと思うんです。そしてそういう豊かな感性って、教育するにも表現するにもやっぱり必要だと思う。

玉城:子育てをしていて、皇帝ペンギンに繋がるとか、普通の人は無いかもしれないけど、美術をやっていたら、意識がいきやすくなっているよね。

赤嶺:ゆっくりゆっくり、感性が開いていく感じがする。他の教科では絶対に開花しない、自分の奥深くに眠っている感覚とか、感じ方みたいなものが、美術を通して豊かになっているっていうのは、4年間通して思いました。そこに教育学部で美術を取る意味があると思います。でも、凄いね、まこちゃんは、自分のやりたいこと突き詰めていっていて。私の卒業研究は真逆で、もう次どうしようかなって思った時に、他愛も無いおしゃべりを永津先生としていた時に、そんなのやったら面白いんじゃない?っていう所から、じゃあやってみようということになって、イベントの前日に思い立って、次の日に参加するなんてことがありました。嘉手納基地の人間の鎖も行ってみる?ってやったのね。


永津:これはそう実際に、人間の鎖の日にね。

赤嶺:そう。嘉手納基地を、人間の鎖で包囲するっていう基地反対の活動があって。それこそ、前日思いついて、その場所に行ってフェンスの写真を撮って、高校の時に家庭科で作ったワンピースを着て、写真を投影してフェンスの模様を描いてもらったんです。それで、翌日写真を撮った場所に並ぶっていう(笑)。絵画の学生みたいにコツコツコツコツ地道に描き貯めていくとかではなくて、わりと思いついたものを、じゃあやってみる!ってやったものが多かったよね。卒業研究の時も、凄い大掛かりで、皆が助けてくれて。「みんなありがとー!皆が居ないと卒業できなかったー!」みたいな。なんか今、写真を見返したら、色んな子が写ってる!って思って(笑)。

永津:「愛ちゃん台風が発生した」ってみんなで言ってた。こう、「ぶおーーー」って周りを巻き込んで(笑)。

赤嶺:でも本当に楽しかった。みんなでみかん狩り行ったり、花火見に行ったりとか。学年みんな仲良かったよね。

赤嶺:「エディブルフラワー」っていう花があって、育てたいんですけど、土が有機的なものじゃないと難しいみたいで…初心者には難しいですか?

玉城:エディブルフラワーみたいに、基本食べる花は...ナスタチウムとかはそこまで難しくないかな。私が向陽高校の非常勤講師をやっていたときの教え子が今生産しています。でもどうして?

赤嶺:食べ物って、普段私たち見て食べるだけじゃないですか。でも、まこちゃんは育てて食べている。自分で育てた花や野菜を生活科の授業などで作って、作品化してみたいんですよ。そんなことを高学年でも教材化できたら面白いなって大学の先生と話しているんです。自分の見方を変えたり、広げたりしながら自分で匂い(嗅覚)や手触り(触覚)を楽しみながら作ることって、図工においても、とても大切だと私は思います。普段は見ているだけのものを自分で造形的に作って、食べてお茶会する♪みたいな。 「旅したい!おいしい浮世絵」っていう番組、知ってますか?NHKでやっているんですけど、歌川国芳などの浮世絵に実際に描かれている鰻の焼き方や、当時の庶民の食べ方、暮らしなどを実際に調べて、実際にその場所へ行って、その老舗のものを食べて味わって、そして再度浮世絵に触れると、実際に学んだ庶民の生活感や、歴史、背景なども含めて、全部が自分の絵画の見方として取り入れられるそうです。「みる」って実は、視覚的な情報だけじゃなくて、触覚や聴覚、味覚なども使って経験したこと全てだと言えると思うんです。だから私は花という、より身近なものを使ってそんな経験を子どもたちにしてほしい。お花を育てて食べるのは難しいと思うけど(笑)。

玉城:すごくいいと思う。でも多分、難しいでしょうね。

赤嶺:私もやってみたいんだけど、無知識でやって何かあったら怖いじゃないですか。だから勉強してからじゃなきゃできないなって。

玉城:友人に食べられるお花でブーケを作ったり、月桃で編みものをしたりしてる人がいるんです。月桃を編むくらいなら、実は私もできます(笑)。

赤嶺:本当?じゃあ、まこちゃん、来年私が現場(学校)に戻ったら、講師として来てくれない?

大山:玉城さんは畑で何を作っているんですか?

玉城:主にレタス系ですね。リーフとかオークとか。レタスは五種類くらい作っていて、それを売りに出しています。あとはお茶を作っています。レモングラスのお茶とか、あとレモングラスの根を買いたい人が何故かいて(笑)。それも売っています。他にはトゥルシーというホーリーバジル、バジルの一種も作っていますね。ちょっと変わったものばかりです(笑)。畑は石嶺にあって、今は150坪分くらいしか動かしていないです。あとの150坪くらいをワークショップなどに使っています。

赤嶺:新聞に載ってた、泥団子の中に種を入れて那覇で配る活動、見たよ。

玉城:ああ、はい、してましたね。今、珊瑚舎スコーレで講師をしているのですが、自分の前任が吉田先生なんですよ。それで、15年くらい前に吉田先生がシードアートプロジェクトっていうのを授業でやったんです。当時、コミュニケーションが苦手な子が多かったので、「種言葉」っていうのを作って、北谷で出会った人に誕生日の種をあげるっていう。それが凄く好評で、私にもう一回してほしいっていう依頼がきて。ただ同じことをするのが嫌だったのと、最終的には生徒自身に自分のシードアートをやってほしいっていう設定だったので、その見本として自分だったらどうやるかっていうのを生徒に見せようと思って、自分なりにシードアートプロジェクトをもう一回立ち上げてみました。福岡正信さんという方がいて、種を混ぜた泥団子を作って畑に撒いて、自然に時期にあった種が発芽するっていう活動をしているんですね。それを使ってもう少しキャッチーなことできないかなぁと思って、ちょうど沖縄のアースデーの飾り付けを頼まれていたので、その時にこれを地球に見立てて地球団子って形にして、畑の種を入れて実際に育てるっていうのを思いついたんです。形がてるてる坊主みたいになってて、最初は下の部分を水の入ったコップに入れていたら勝手に水を吸い上げて発芽までするんです。そして、発芽した後にある程度芽がおっきくなってきたら下を切って、吊るして、星に見立てるっていう。それで飾って、最終的には腐って落ちて、土に帰る、という流れになってます。一見作品みたいにしてあるけど、実際にはチームを作ってちゃんと売る目的でやってます(笑)。

永津:周りを全部、苔で覆えないの?

玉城:覆えます。で、実際にオブジェとしての「浮島ガーデン」も作ろうってなって、今度試しに自分の畑で販売会みたいなのする予定になっています。こう、最初の地球団子からこうやっていろんな人が関わっていって、種ってものから出発して自分なんかが仕事を作るまでに発展していく仕組みを見せたいってのが、今、自分が珊瑚舎スコーレでしているシードアートプロジェクトですね。こんな感じで、話がどんどん転がって広がっていく様子が、種みたいだなって思いました。 小学校に通っている娘が、「すみれのはなし」を国語で読んでいて、すみれって、ポンって種がはじけても咲く範囲は限られている。でもあちこちに生えているのはアリが餌として種を巣まで運ぶことによって、巣の近くまで移動して発芽するんですよ。これに似ているなって。こういう仕組みを知ることで、新しい、違う視点で種をとらえてみてもいいんじゃない?っていう提示をしたいな。まあ、僕がこんだけやっているの見せたら、わたしらこんなん出来ないって逆に子どもたちが引いてしまって、あちゃーってなりましたが(笑)。


 卒業生インタビュー
聞き手・記録・構成

 

大山梨子

高山 楓

宮近 徳

杉原冴香

松田彩花

冨成亞有

永津禎三