2008年度 卒業・修了研究


大学院 教育学研究科

大塚 京平

 

沖縄の養蚕・絹に関する研究

(作品および論文)

 

 本研究では、沖縄の養蚕と絹を中心とした歴史、特徴、製糸、染織品調査、織物について概説した上で、今後の沖縄の蚕糸および絹織物の展望を示した。
 まず第1 章では、沖縄における養蚕、絹織物の歴史・変遷を調べることで、その地域特性や特色について分析した。第2 章では、絹糸の構造、製糸技術の変遷を追っていくことで、絹素材の質感やそれを構成する要素について考察した。続く第3 章では、沖縄県内で調査した絹織物資料の拡大繊維画像から分析および考察を述べた。第4 章では、実際に繭から繰糸して織物にするまでの工程を試験的に行い、それによって生じた問題点や結果について考察している。終章では、各章を受けて、今後の沖縄の養蚕と絹の展望や意義について提案した。以上の観点から、沖縄の養蚕と絹について探っていきたい。
 また今回、論文の第4 章で制作した布の一部を、夏物の男性用ジャケットに仕立て展示した。なお、使用した素材(繭、染料)は、すべて沖縄県内で作られたものであり、改めてここで各関係者に謝辞を述べたい。

 


絹・ジャケット
経糸:生絹、無撚、25d の2本引き揃え
緯糸:練絹、右片撚、25d の5本合糸
染料:琉球藍
平織
50×81×20(cm)


玉寄 真季子

 

希薄な現実感

 

現実感とは私の中にどうあるものなのか?

よくわからない。全くないわけではない、しかしちゃんとある気もしない。

これからどうなってしまうのだろう?

どんどん薄くなって、ある日、紙石けんのように手応えもなく消える……ということはなさそうだ。

今のところ

自分のことなのにただ想像する。問いかける。

これは何なのか?私はここにいていいのか?

ひとりぼっちで世界にいる気がして、さびしくて悲しかった。

それを話すことにためらいがある。

宙に浮いた言葉 ためいき 形をとらない感情や姿

耳をすまし、そっとすくいあげる。

よみこみ(繰り返し)
写真、ファンデーション
写真:約80× 約193(cm) 


教育学部 美術教育専修

新垣 徳子

 

いたずら

 

 物凄く辛い事があった時、ちょっと笑ってしまう。とても怖い思いをした時も。
ちょっと笑って、今私に起こってる事は本当なのかな?と思う。そう思って笑っている時、私の意識はその辛い出来事から少し離れている。
 
 私にとっていたずらとは、しょうもない無為な事、自分の存在のアピール、誰かと関わりたくてする他愛無いちょっかい、空想と現実を混ぜっ返す冗談のような嘘。
 そして、とても辛い事があったときその辛い現実への過度の密着を防いでユーモア、こっけい、おかしみ、もののあわれなどで包み、その辛さをちょっとゆるめてくれるようなもの。辛い現実が辛い現実でしかなくなることを防ぐための、少しの笑い。悲しい事があった帰り道、ふと見上げた空の綺麗さ。


辛くて、おかしい。
悲しくて、綺麗。
 それを「美しい」と言ってもいいんじゃないかと思った。


 あるいはそれらすら全て、嘘。

神さまにいたずら
ケント紙、和紙、スチレンボード、他
神棚:29.7×20.7×22(cm)
神さまへのサービス券:18×8(cm)4枚


登野盛 利奈

 

言 霊

 

 私は、日頃から身近に飛び交う話し言葉の、見えないものでありながらエネルギーを感じるという所に不思議を感じていました。特に、言霊のもつアニミズム的な要素に興味があり、その魅力を美術的な立場から表現してみたいと考えました。
 まず、言葉の概念からではなく、ものの存在自体と向き合い、繰り返しドローイングを続け、見た事もないような不思議な線の形態や穴、ひび、形状、色味、微かに残る生臭い臭いを感じながら、そこに神秘的な世界が広がっているのを知りました。その体験を重ねていく内に、私の頭の中に次々と「ほね」のイメージやストーリーが浮かんできます。それらは、断片的な色や形、情景であり、生のイメージを色濃くしていくものでした。音になる以前の言葉の姿を、ドローイングという表現手段を介して追い続け、役割としての言葉ではなく、もっと原始的で素朴な姿に少しだけ近付けたのではないかと思っています。
 私にとってこの作品は、ひとつのきっかけになるものであり、これまで行ってきた制作活動の経験
が種となって、多方面に向かって発芽していくような起点でもあると考えています。

 

画仙紙、鉛筆、木炭、クレパス、墨汁

巻物に表装したドローイング作品

約35×600(cm)


本田 ちひろ

 

向こう側の景色

 

本研究の研究テーマとして、【向こう側の景色】を取り上げる。
テーマの背景として、私は「鬱」や「PTSD」といった心の病を持っており、美術という手法をとって真っ
正面からその「心の病」と向き合うことで、何か今までとは違った新しい「風景」を見ることが出来ないかという願いがある。
その為のアプローチとして、「切り裂く」という表現を用いた。
上記の作品は、現在私の中にある「心のかたち」を捉えようとして生まれたものであり、その「心」に対するイメージは「切り裂かれ、赤い血が流れ出る」というものである。
初めに、そのイメージとして柔らかい布を生地としたキャンバスを切り裂き、そこから赤い絵具を垂らす事で「痛み」を表現した(写真右手前)。
しかし、それだけでは実際に私が感じる「心」に対して痛みだけではなく、それ以外の感情表現の方法に対して物足りなさを感じた。そこで新たに空間を用いて「心」を表現することにした。よって、立体で自分と等身大の「球」(正確には「球」が切り刻まれ崩れかけている)を用いた表現へと至った。
この「球」を作るにあたって、「切り刻まれた姿・形」「その断片」をより際立たせるため、赤い絵具を排除した。そして、「等身大の球」を切り刻む姿をパフォーマンスとして提示する事で「向こう側の景色」に近づけたらと思う。

紙 160×160×160(cm)


上條 達矢

 

組み合わせから生じるずれ

 

 異なる素材を組み合わせるとその一つ一つが主張しずれが生じる。このずれは見た目に大きく影響し、違和感と共に面白さを与える。
 本作品はずれに着目して制作した「花器」である。主な素材の白土(信楽)には透明釉薬(一号石灰)、また組み合わせに使用した金属(ボルトやワイヤーなど)には着彩をせず、全体を無彩色にまとめることで、より素材そのままの表情を活かした。


 花を活けた時に初めて彩が加わる。

 

無 彩
陶(信楽焼)、金属
100.0×100.0×230.0(cm)


川上 絵美

 

光の演出

 

 自然の光、その時にきれいだと感じてもまた同じものを見ることができない儚さと曖昧さ、そして自然という壮大さに憧れとおもしろさ、美しさを感じていた。
 自然の光を直接取り入れ、その面白さを表現できる作品を創り出すことができないかと考えたのがこの紙を使った作品である。「障子」のように光を遮ったり、時には、柔らかく暖かい光を取り入れてくれる。このように自然の光とより密着した作品が創り出せないかと思った。
 紙には、月桃を取り入れ、自然が作り出す淡い桃色から濃い色、今にも切れてしまいそうな薄い紙から厚い紙まで、それぞれが自然の光を通してみることで独特の雰囲気をかもしだしてくれる。作品全体だけでなくパーツ一枚一枚の雰囲気が少しずつ違うので、それらも味わってもらいたい。光と紙の調和した世界ができ、そして、時間や天気によって変化する自然の光の美しさ、おもしろさを劇的な変化には乏しいが、少しでも表現できていたらと私は思う。


手漉きの月桃紙
135×210(cm)  12 枚 


玉井 智也

 

専 用

 

私は椅子で寝てしまうことが多い。本を読んでいる時はもちろん、人の話を聞いている時や勉強やパソコンなどの軽作業中に至るまで椅子で寝てしまうシチュエーションは多岐に渡る。その時行っている作業のおもしろいおもしろくないには関係なく、いつの間にか眠りに落ちている。意識を刈り取られるという感じだ。こんな私をよく知る友人には「病気だ」と言われるが、私も最近「そうなのかもな」と思う。
居眠りなんてダメなのはわかっているし、一緒にいる人間としては迷惑な話だろう。しかしその眠りがとてつもなく気持ちいいことがあるのも事実だ。悪いとわかっていても、私は居眠りが好きなのだ。
椅子で寝ることが多い自分のために、気持ちのよい居眠りをサポートする私専用の椅子を制作した。

椅 子
パイプ、紐
62.0×75.0×93.0(cm)


渡久地 杏子

 

記 憶

 

 18 〜20 歳まで過ごした東京・月島の風景を、携帯電話のカメラで私はよく写真に撮っていた。よく晴れた日の夕暮れ時の風景は、空のグラデーション、そして高層マンションや長屋に落ちる夕日がとても奇麗だった。この風景は、私に「一生忘れることは無いだろう」とたびたび感じさせた。
 
 物をよく無くす。大雑把な性格が原因かもしれない。それなのに、とても気に入っていた物への未練はいまだに消えない。出来ることならもう一度同じ物を所有したい。
 「一生忘れることはないだろう」と感じ、あんなに思い焦がれた月島を何年かぶりに訪れると、気持ちの高揚はあったが記憶とのギャップがあるような気がした。それでも月島への思いは頭から離れない。
 「出来ることならもう一度同じ物を所有したい」と心底思っていたのに、いざ売っている所を見つけると、そこへ行く機会がある度に、眺めて、悩んで、結局買わずに店を後にする。それでもどうにか手にしたい。
 記憶に思い入れがあるほど、再び目にした時に現実との何かしらのギャップはあるが、そこを超えて感じるものを作品にしたくて制作してきた。

TSUKISHIMA
キャンバス、油彩、インクジェットプリント
410×200(cm)


名嘉真 典子

 

ないようで あるもの

 

 学校、家庭、人間関係、社会、この世の中どこにでもある“ 決まり”。その中での“ 絶対的な存在”つまり、ルールや正義は、一種の枠であると感じます。
 自分の気持ちの前に“ 正しいこと”“ あるべき形” としての行動を取らざるをえない環境・状況の中で感じる“ 本来の自分” に対しての違和感から、何ヶ月も悩む事も少なくない。
 そこから“ 絶対的なもの” の協調性に強制的な“ 息苦しさ” を感じてしまうのかもしれません。儚いものや、目には見えないものの中で感じる安らぎや、必要性は” 本来の自分が受け入れられる” という観点から成っているのかもしれないと感じます。
 だから“ ないようで あるもの” の存在は、私にとって“ 謙虚な存在” であり、それの存在に気付いた時には、私にとって大きな重要性を感じてしまいます。
 なので“ 不確かなもの”“ 不安定なもの” 等の見えにくいモノから、それらの主張の部分を拾い上げ、それに対して私なりに感じる存在感を表現していきたいと感じました。

指紋の時間
トレーシングペーパー、
ティッシュによるこより糸
83×59(cm) 


比嘉 沙織

 

不安のカタチ 〜影を追う〜

 

私は平穏に生きたい、そのためには不安にさせる影は取り除かなくてはいけない。

ただ白い、

落ち着かない部屋、

終わりが無いようで抜け出すことが不可能な気分になる。

留まる気はないのに。

何に向かい、何を求めているのか。

何に動かされ、動いているのか。

それを知りたくて、しっかりと掴みたくて。

近づこうとすると、離れていく。

だからここで立ち止まっている。

むこうから近づいてくる気がするから。

私を不安にさせる影、一体それが何なのか、ずっと考えている。

そんなことを考えていると、

私は私が怖くなり、

その存在を確かめたくなる。

そしてどうしようもないくらい、不安になる。

白布、スタンプ、赤布

174×116(cm)


宮城 麻衣子

 

鏡像—現実と非現実の隙間—

 

 自分の顔。自分のものとして私の表面にあるのに自分の中には「自分の顔」が存在していない。けれど、周りからは私の表面にある「顔」というカタチが「私」という一つの証明になっている。私と私の周りとのずれが自分をさらに遠い存在にしていく。自分が自分であるものをつかみたい。そうすることで自分の中に「私」を残せるのではないかと思った。

 この作品は、自分の指の表面の型をとり、それをつなげて自分を覆う服にしたものである。指紋という自分にしかないもの、指は何かに触れてそれを確認できる部分というのが気になり指の表面の型をとるという行為を続けてきた。とれた指の型は物体として自分から離れてしまうが「自分」という存在を感じることのできる証明物のように感じた。その型をつなげて制作した自分を包む服は自分が自分であるという存在をつかむことができるように思えた。

存在の結合
木材接着剤
約40×100(cm)


教育学部 島嶼文化教育コース

北島三津子

 

ネガポジ

 

 

 誰にでもあまのじゃくな一面がある。人の持つあまのじゃくな心の動きを上手く利用して、ネガティブなものからポジティブな方向へ持っていこうとした。「~するのは良いことだよ」と言われればしたくなくなる。本人がやめたくてもやめられない悪癖を、面白いものとしてとらえたり美化したりすることで、そこからスッと抜け出したい気分にさせようと試みた。

 

図録掲載の作品『負けおしみ(うずまき)』と『負けおしみ宜野湾トロピカルビーチ』は、遊ぶことが苦手な私自身が、楽しそうな人達に対してどうしても抱いてしまう嫉妬や劣等感を笑いに変えようとしたものである。

 

人々が楽しそうに遊んでいる場所で、虫眼鏡を使って日光を集め、紙に焼き焦がした線を描いた。あるときは、うずくまってグルグル回った。またあるときは、焦がした紙で飛行機を作り、楽しそうな人達に向かって飛ばした。太陽の力を借りて、「私だって楽しいのよ」と精一杯張り合った。

『負けおしみ(うずまき)』

 ハトロン紙、日光

90cm×120cm

『負けおしみ宜野湾トロピカルビーチ』

映像作品、4分