interview

2012


大城奈津乃さん

OHSHIRO Natsuno

 

沖縄県北中城村出身。

平成19年琉球大学教育学部卒業。同年、NHKに入局、福島放送局放送部に配属される。映像制作として地域放送のニュース制作や取材業務に携わる。平成23年に沖縄放送局に異動。

 


Q1:現在のお仕事の様子(どこで、どんなことをされているか)をお聞かせください。

NHK沖縄放送局放送部のニュースセクションにて映像制作業務にあたっています。 

主にローカルニュースの編集・送出業務を行っています。たまに全国放送の番組編集も行ったりしています。記者の書いた原稿にカメラマンの撮った映像を合わせる作業と言ってしまえば簡単ですが、そんなに甘くはありません。特にローカル放送局ではどの言葉を切り取るかやコメントをどう振るかなど色々な判断を任されます。面白い部分ではありますが、色々な人の思いがつまっている分、責任は大きいです。

Q2:なぜ琉大の美術教育専修に入ろうと思ったのか、また、受験にあたってどんな勉強をされたか、お聞かせください。

もともと、絵を描くことや彫刻が好きだったという単純な理由も一つです。 複雑な方の一つは「記憶をどう残すか」ということに興味があり、美術がその武器になるかもしれないと思い美術教育を選びました。 受験勉強は高校生の時に割と真剣に授業を聞いていたのでそれが役に立ったと思っています。

ー琉球大学に入学する前に1年ほど他の大学(成蹊大学)に通っていたそうですが、大学を変えるきっかけがあったんでしょうか。 

そうですね。前の大学は「就職に強い」という理由で経済学部を選んだのですが、入ってみて私には向いてないなと感じました。それがわかったとき、思考をぐるぐる巡らせるような学問が私には合っていると思ったし、手にとる本や関心事が美術・美学的なものが多かったというのもあり、この学科を選びました。

ー美術に興味があるとわかったとき普通だと県立芸大を目指しそうですが、なぜ琉球大学の美術専修を選ばれたのでしょうか。 

県芸では小学校免許が取れないのですが、琉大では小中高全部取れるんです。私は全てのライセンスが欲しかったので(笑)琉大にしました。そこは総合大学の強みだと思いますね、色んな先生がいて、色んな授業が聴けるというのは。

Q3:琉大での学生生活はいかがでしたか?研究活動や友人関係、教員との関係等、印象に残っていることがあれば教えて下さい。

学生生活はとても充実したものでした。前の大学では、教授とフランクに話すことはあまりありませんでしたが、琉球大学では先生方との距離が近く公私に渡り色々と相談に乗って頂きました。 友人達も先輩から後輩まで少人数ということもあり、濃密な人間関係を築くことができて、それが現在の自分の宝物になっています。 在学時にはwanakioや新潟県で行われた「大地の芸術祭」など学外活動にも参加する機会があり、その中で色々な人と出会い、学ぶことができました。

ー美術教育専修に入るまでに作品を制作する経験はおありでしたか。

制作よりは鑑賞の方が多かったです。映像でも大学に入ってからも技術的にすごいことはしてなかったですし、「パラパラマンガ」の手法など単純なものでした。また個人的な制作はあってもそれを外に出すこともなかったですね。今はずっと外に出してるので恥ずかしいです。(笑)

大学で作った映像作品は「Illastrator」や「Photoshop」といったソフトを使って、少しずつ絵を動かしながらアニメーションにしていくという初歩的なやり方で作りました。

―アニメーションといったときに、手描きやクレイアニメの手法といった(アナログな)指向はなかったのでしょうか。 

そういうことも考えましたが・・・入ってからの周りの影響が大きかったですね。周りのみんなが映像やソフトを使いこなしたりしていて、ちょっと悔しかったんです(笑)

Q4:卒業研究では、正秀先生の指導のもと「The Representation of Pain」をテーマに、痛みの記憶の表象行為についてご自身の体験や様々なドキュメンタリー作品を通して考察されました。また、美術教育専修では「珍しく」論文形式の発表でした。この卒業研究は、ご自身にとって、どのような経験だったのでしょうか。そして、その経験は卒業後の進路にどのような影響をもたらしたのでしょうか。 

研究のテーマは、前の大学の一般教養で精読した「記憶/物語」という本の中の「暴力的な出来事を語ることは可能か?」という主題から来ています。本来ならばそれを作品という形で取り組むことも可能だったと思います。1年の後期と2年の前期に映像作品を制作していましたし、卒研も最初は実技で考えていたんですが、卒業研究の際にはそれがまだまだ消化途中で、作品という形で発表するまでにはいたらず、思考の整理という形で論文形式での卒業研究とさせて頂きました。卒研は自分が今後何をしたいか、やっていくかを考えるのにちょうど良い機会でした。卒業後も現在の仕事を通して卒業論文のテーマと似たようなことに向き合い続けています。

大城さんが卒業論文で考察したフォトジャーナリズムの作品


Q5:現在のお仕事について少し詳しくお聞きします。

ーどうしてNHKへの就職を希望されたのでしょうか。 

NHKの持っている映像資産に興味津々だったのと、映像という分野が記憶を形として残すことに適しているのではないかと思ったからです。沖縄という枠を飛び越えて全国、全世界を視野に入れることができるという所にも惹かれました。

ー就職活動はいつごろから始めましたか?またその時に希望先はNHKに絞られていたのでしょうか。

3年からやりたいことを精査していって、色んな業界を受けようと思っていた所、目にとめてくれたのがNHKでした。

ーご自身がNHKに選ばれた理由はお訊きになられましたか。 

今振り返ると、やはり真面目さが買われたのだと思います。

ーNHKが募集していた時点で、報道の中でも記者や映像制作といった細かい分野まで決めていたんでしょうか。 

応募書にどの業種を希望するかという欄があります。面接はその職種の人がやりますし、どこかの段階ではその専門職の方に見てもらうことになりますね。

ー入局する前からやりたかったこと、入局してからやりたいと思ったことはありますか。

ドキュメンタリーの制作をやりたいなと思っていました。(入局後)やりたいと思ったことは映像資産を未来に良い状態で残すことです。

ーNHKならではの楽しさ・大変さはありますか。

豊富な映像を駆使できるのは本当に楽しいです。沖縄局に転勤してから制作した復帰40年映像企画では生まれ育った沖縄の新しい部分を発見し、それを放送に結びつけることができました。 大変なのは災害や緊急報道です。24時間いつどこで起こるかわからないことにいつでも対応しなければならないというところです。大変だけれどもそれは使命でもあり、やりがいの一つだとも感じています。

ー一番やりがいのあった仕事は何ですか。

3.11の時の災害報道です。当時、福島局勤務で自分自身も被災しつつ放送を出し続けました。想定の範囲を超えた現実が次々と起こる中で自分がやるべきことを考える余地もなく懸命に・・・。

ー少し詳しくお訊きしたいのですが、どの期間に福島にいらしたのですか? 

研修を終えて最初の赴任地として、2007年5月から福島市で働き、2011年の7月までそこにいました。

ーご自身も被災されたとのことですが、どんなことが起こっていたのでしょうか。

3.11の日は高速道路でいわき市に向かっていて、そのとき地震が起き、私は帰宅困難になりました。

ーその後福島市に戻ってされたことは?

地震、津波はもちろんですが、原発事故のことを中心に報道しました。

ー日本の弱い部分を担って犠牲になっているという点で福島の原発問題と沖縄の基地問題には共通点があると思うのですが、マスメディアの中では、そういった視点からの報道をやろうという人はいますか? 

そういう人がいないという訳ではないです。そういう人の存在を肌で感じてはいます。

ー仕事をする上で、一番意識していることは何ですか。 

放送で誰かを不用意に傷つけないか、です。

ーそれは卒研テーマの「痛み」とも関連するように思いますが、卒研を経て思いがより強まるといったことはありますか。 

それはありますね。「セカンドレイプ」じゃないんですが、せっかく話してくれて記録に残っていても、その言葉を出すタイミングや文脈でちょっとした嘘をついてしまう、というのがけっこう怖いです。こちらが語りたいように語らせてしまったり、話してくれた方が「あ、こんなこと言ったけど、そういう意味じゃなかったのに」となったりすることがないようにしたいと思っています。 卒研で考えたことは今も考えていますし、仕事の幅が広がった今「あのとき考えたことが今できているかな」と振り返る原点になっていると思いますし、同僚と思考のやりとりをするときの武器にもなっているかなぁと。

ーNHKに就職を希望している学生や後輩に、何か一言アドバイスをお願いします。

NHKは仕事の幅が大きくて本当にやりがいはあります。しかし、それは日々の地道な努力が積み上がったものです。一見して地味に見えることを熱意を持ってやり遂げる意志をもっていれば良いと思います。

Q6:琉大美術専修を目指す学生や、沖縄で表現活動をしている方々に向ける言葉などありましたら。

沖縄で発信するということがその土地の温度を伝えるというか、他から来て遠くから見ていて沖縄のことを表現しようとするよりは、沖縄のものを食べて沖縄の温度で表現するほうが遥かに発信力が強まると思うし、根付かないと発信って難しいのかなと思います。沖縄で美術を学んでいるからこそ発信する力を蓄えることができることも多いのではないかと思うんですね。沖縄の人が沖縄の外に出て沖縄を見るということもあるとは思いますが、沖縄のことを発信しようと思ったら沖縄に来るのが一番いいかなと。

ー大城さんは県外に出て沖縄の見方は変わりましたか。

変わりましたね。県内にいるとき、県外に出たとき、報道という視点を得て沖縄に帰って来たとき、その時々で沖縄の見方が変わって行って、今は沖縄の抱える問題があまりにも難しすぎて、考えが混沌としています。

ードキュメンタリー制作として今やりたいこと・プランなどありますか。

ドキュメンタリーの中でも重たいといいますか、卒研のテーマじゃないんですけど記憶の痛みに向き合うといった内容・・・それは今も私の中で消化出来ていないんですが、いずれそれと向き合えるときがくれば、福島での経験も生かしたものを作りたいと思っていますし、自分のルーツである沖縄の混沌とした状況などを伝えられるものが作れたらなと。

ー貴重なお話が聞けてとても有意義な時間でした。今日はありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

<おわり>